はあ…と、まわりを気にもせずに大きな溜息をついた後、
ワイングラスに映る自分を見つめた。
(私、老けたなぁ…)
自分で自分が嫌になる。どこで何を間違ってしまったのだろうか。
一生懸命生きてきたつもりでいたのに、何が悪かったのだろうか。
「こちら、本日のアンティパストです」
「グラーツェ」
カメリエーレが一人分の前菜を運んできた。
彩りも綺麗な3種の前菜。
それをテーブルに置く彼の指もしなやかで美しい。
この店でレストランウェディングが出来たらゲストも満足するだろう…と思ったところでは頭をふった。
今日は仕事の事は考えない、そう決めていたのに。
注がれたワインを一口含む。それは疲れた身体に染みこんでいくようだった。ふいに涙が溢れてきそうになる。
“もう会わない”
そう書かれたカードをぐしゃりと握りつぶし、口唇をぎゅっと噛み締める。
自分がいけない。
そんな事はわかっている。
今日は恋人と自分の、ラストチャンスの日だった。
きっと彼は指輪を用意し、それを受け取ってこう言うハズだった。
嬉しい、幸せよ、と。
それをこんな結果にしてしまったのは自分以外の誰でもない。
元々関係は上手くいっていなかった。
人の幸せな顔を見るのが幸せ。花
嫁の幸せな顔が何より一番の幸せ。
そう思ってブライダルの仕事を始め、友人と小さな会社を立ち上げた。
小さな会社では役割分担など出来ずに全て自分の責任でやってきた。
そのせいで自分と彼の時間を削って。
それが彼にとって不満だった事は知っている。
『きっと人生で一番大切な日になるよ、君にとっても、僕にとっても。
だから、8時に。待っている。』
彼はそう言っていた。
しかし、約束のこの店に辿り着いたのは、日付が変わる少し前。
一口づつ盛ってある前菜を綺麗に食べ終え、店内を見渡す。
味も然る事ながら、従業員全員が老眼鏡着用の紳士という、人気のある店。
派手さはないけれど、落ち着いた店内。
予約を取らなければ、入店も難しい。
客は女性ばかりのこの店で、彼はどの位の時間自分を待っていたのだろうか。
「ほうれん草とマスカルポーネのクリームソース…」
「あの、」
「はい」
気が付けばパスタを運んできたカメリエーレの言葉を切って話しかけていた。
けれど紳士は嫌な顔ひとつせず、物腰の柔らかい笑顔を向けてくれた。
老眼鏡をかけた色素の薄い瞳が向けられる。
「あの、彼は……この席に座っていた人は、何時頃まで居ましたか?」
「…はい、」
少し困ったように、申し訳なさそうな笑顔に変わる。
その表情で察してしまう。
彼はそんな長い時間待っていた訳ではない、と。
気が長いタチではなかったし、こんな大切な日に待たせる自分が一番悪い事もわかっている。
「1、2時間程かと…」
「30分もいなかっただろーが」
横からもうひとつの声が入り込み、そちらを見遣る。
細面でやはり老眼鏡をかけた紳士のカメリエーレ。
突然会話に入ってきた事には驚いたけれど、彼の言葉が、たぶん、真実。
やはり、と言ったところ。
食事を運んでくれた彼は、気を使ってくれたのだろう。
「ルチアーノ、そういう事は…」
「こういう事はハッキリ言ったほうが良いんだ、クラウディオ」
優しい笑顔の紳士がクラウディオ、ライトグレーのオールバックの紳士がルチアーノ、というらしい。
でも今はそんな事どうでも良かった。
胸のなかのもやもやを吐き出してしまわないと、パンクして自分が壊れてしまいそうだった。
自分も対人の仕事をしているからわかる。
今からこれを吐き出せば、この人達の迷惑になる事。
今日この場所に遅れたのだって、1週間後に式を控えた若い夫婦が些細な事で喧嘩し、
別れると言い出したのを仲裁していたからだ。
そんな話しを聞く側の気持ちは痛い程わかる。
でも、どうしても、言わずには居られなかった。誰かに、聞いて欲しかった。
「きっと私が遅れなければ、私達、結婚していたんです」
ぽつり、とそう言い出すと止まらなくなった。
クラウディオは一瞬驚き、ルチアーノは小さく溜息をついた。
きっとこんなお客さんの相手も、初めてではないのだろう。
また面倒な話しを聞く事になる、そう思っているに違いない。
「私、何度も言われてきた。
仕事と僕と、どっちが大事なんだ?って。
大切だよ?どっちも。そんなの比べるほうがおかしいじゃない。
そりゃ大切な日に遅れるのは悪いわ。
ううん、約束に遅れる事自体が悪いんだってわかってる。
でも、一生のなかで最も大切な日をプロデュースするのだから、手なんか抜けない。
花嫁の幸せな顔が私の幸せなの。
でも自分はどう?結局振られて、何をやっているんだろう…っ」
溜まっていたものを吐き出すと、それにあわせて涙が零れてくる。
静かな店内は、嗚咽混じりのの声が響いている。
「彼を大切にしなかったのだから振られて当然。
彼を省みずに、疎かにしていたのに愛して欲しいだなんて、我侭が過ぎる。
それでも彼が最後に愛そうしてくれた、
それを裏切ったんだって、わかってる、わかってる、けど…!!」
醜い。顔も、心も。
自分はどうして初めて来たレストランでこんな話しをしているのだろう。
何もかもが嫌になって、顔を伏して、声を上げて泣く。
こんなに泣く事も、いつ以来かわからない。
紳士達の視線が、自分に集まっているのを感じる。
でもトゲトゲしさなどない、とても優しい視線。
この店は23:30閉店。それを過ぎて来たのに笑顔で迎え入れてくれた。
だからかも知れない。
こんな醜い自分すら、受け入れてもらえるかも知れないと、そう思ったのかも知れない。
コトリ。
散々泣いて少し落ち着いて来た時、耳元で何かを置く音が聞こえて、顔をあげる。
「…ホットワイン」
少しくすんだ金髪の、紳士のソムリエが小さく喋った。
礼を言うことすら出来ず、温かいワインの入ったマグを手のひらで包む。
「どうぞ召し上がってください。きっと落ち着きます」
「あ、りがとう…」
クラウディオがそれを勧めてくれる。
ようやく発した声は掠れていて、少し恥ずかしくなった。
気がつけば、ソムリエだけでなく、他のカメリエーレやシェフもホールに出ている。
少し距離をとり、おもいおもいの席に座っている。
クラウディオは、ずっと傍に居てくれていた。
「私達と同じですね」
「え…?」
にっこりと、クラウディオが笑う。
この人の笑顔はどうしてこんなにも優しく、こんなにも人を惹き付けるのだろうか。
「私達もお客様の笑顔が、何よりの報酬です。
ここに居る皆、そう思ってこの店に居るのですよ」
ホットワインに口をつけると、身体が芯から暖かくなっていく。
メニューにあるはずもない、の為に用意してくれたものだ。
ほのかな蜂蜜の甘みが、心に染みる。
「でもずっと力んでいたら、もたないだろう」
声の方向を向くと、あの無表情なソムリエが皆の分を用意したのだろう、
少し離れた席でルチアーノもホットワインを飲みながら、そう言った。
彼の言葉はしっかりと現実を見据えていて、冷たくも感じるが、その奥に優しさが含まれているのがわかる。
「たまに、息抜きも必要です」
そう言うクラウディオに、皆も同調しているようだった。
暖かい店だ。
料理が美味しい、老眼鏡の素敵な紳士がいる。
それだけじゃない、その空間は全てを受け入れてくれるようだった。
「みなさん、ありがとうございます。あの…また、来ても良いですか?」
こんな醜態を晒しておきながら、また来たいと思ってしまうような、そんなお店。
「勿論です」というクラウディオの声と、皆の温かい視線に、またうっすらと涙が滲んだ。
ローマの中心から少し外れた通りにあるこの店。
クマの小さな家という意味のこの店は、従業員は皆老眼鏡の紳士という、少し変わったレストラン。
casetta dell'orso
クラウディオは優しい笑顔で、
ルチアーノは 「また来たか、泣き虫娘」と言って、
ソムリエのジジは変わらず無表情で美味しいワインを持って、
再び訪れた時には、そう温かくを迎えてくれるだろう。