夕刻…というには少し早い時間。
空も暖色になりつつあるけれど、朱に染まるにはまだ時間がある。
恋人と別れてから始めての一人での休日。
束縛や拘束のない時間を楽しむ為に、は朝から買い物を続けていた。
別に気を紛らせる為でないと、自分に言い聞かせながら。
「相席、宜しいでしょうか?」
「あ、どうぞ…」
ランチも取らずに夢中で歩き続けたせいで脚はパンパンになっていた。
もう少し低めのヒールを履いて来れば良かったと後悔している時、目に留まった一軒のバール。
混んでいて賑やかさも耳につくけれど、これ以上歩いて他の店を探す気にもなれず、唯一あいていたテラスの端の席へ腰掛けた。
始めて入った店だったが、好みのエスプレッソに一息ついていたところ、相席の声。
独りで静かにいたかったのだけれど、もし何か話しかけられても無視を決め込めばいいだろう。
ちょうど続きが気になっている小説もある。
ひたすらにそれを読んでいれば声もかけ難いだろう。
と、小説を鞄から取り出して、視線を下へ向けた。
その視線の端に、相席になった人の、カップに沿える手に目がついた。
なんてしなやかな指だろう。
年齢を重ねた事が読み取れるその手はすらりと伸びて、その動きには品がある。
男性の、しかも年配の人の手に見惚れる事など今までない。は興味に勝てずに視線をあげると、ふいに目が合ってしまった。
にっこり、と 微笑む年配の紳士。
あまりにも優し気な笑顔が、そこにあった。
「待ち合わせですか?」
「…え?あ、いえ、一人なんです」
「そうですか、私と一緒ですね」
低めの心地良いトーンの声が耳に入る。
父親より少し年下位だろうか?微笑むと、老眼鏡をかけた優しそうな目は細くなり、口許の皺は深くなった。
話しかけてきたのは、きっとが彼を凝視していたから。
声をかけてきたら無視…などと思っていたのはどこへとやら。
彼の視線が子供を見るような優しい視線だったのが、何故か少し悔しかった。
老眼鏡をかけた年配の紳士。
大人の余裕と色気があり、モテるんだろうなあ。
…一回目は、ただそう思うだけだった。
*****
恋人と別れた傷も癒えてきた頃。
は友人とのランチの約束の為にローマへ足を運んでいた。
ローマへ来るのはあの日以来。老眼鏡紳士とバールで同じテーブルに着いた、あの日。
決して遠い訳ではないけれど、でも用事がない限り来ないこのローマ。
日々のなかで彼の事など思い返す事はなかったけれど、同じ街にやって来たからか。
あの優しい眼差しと綺麗な指を思い出していた。
彼は何をしている人なのだろう?まだ定年には少し早いと思う。
子供はもう結婚していて孫まで居たりして。
結婚指輪はしていた?彼の手に見惚れていたのに思い出せない。
でもあんなに素敵な紳士が周りに放っておかれる訳がない。
待ち合わせ場所に向かう途中、はたとする。親ほども歳が離れた、
しかも一度、たまたまバールで相席しただけの人の事を、どうしてこんなに考えているんだろう。
そんな事より早く約束のトラットリアへ向かわなければ。ただでさえもうギリギリの時間なのだから。
「…っ!」
「あ、すみませ…っ、」
変な事に頭を使っていたせいか、周りが見えていずに人にぶつかってしまった。
決して身長の低くないの目の前に襟元があるという事は、それは男性だろう。は焦って顔をあげようとした、が。
「すみま…っあ、」
「こ、こちらこそすみません…、?」
顔をあげる事が出来なかった。
ぶつかってしまった彼のコートのボタンに、髪の毛が引っ掛かっていた。
何というベタなアクシデントだろう。
けれど実際に起きてしまうと、どうしようもない位に気が動転してしまう。
絵で表すなら、の目は間違いなくグルグル渦を巻いている描写になっているはず。
「あのっ、すみませ…!私、ぼーっとしててっ、ですね、そのっ、」
「いえ、こちらこそ…すみません」
「あぁっ、どうしよう、すみません…!!」
「いえ、私も…」
胸の辺りまであるの真っ直ぐな髪が、半分辺りからボタンに絡まってしまっている。
多くはないが、簡単に抜けるような量でもない。
焦るだけ酷く絡まっていく髪の毛に更に焦ってしまうは、口から謝罪の言葉しか出ていなかった。そしてつられるように、相手もに謝っている。そんな会話のループに気付いたのか、顔の見えない彼からくすりと笑う息遣いが聞こえた。
「大丈夫ですから、落ち着きましょう」
優しく諭すような年配の男性の声。気が動転していると対照的なそれ。
余裕のある男性の言葉のせいか、焦っている自分がまるで子供のようで、
恥ずかしさが増してふいに涙目になっていく。
何が大丈夫だというのだろうか。
もうこうなったら髪を切るかボタンを切るかのどちらかしかないじゃないか。
「…、かなり絡まってしまってますね…」
が手を離すと、今度は彼が髪を解こうと試みる。
けれどやはり解ける気配は微塵もない。
目の前には男性の胸と、綺麗な指。あの人のような、色気すら漂う指先。
でもあの人な訳はない。
そんな偶然、あるはずない。
けれど、しなやかに動くそれには目を奪われてしまう。
「あの…すみません、ハサミみたいな物、持ってますか?」
「あ………はい。あります、ポーチの中に…」
やはり切るしかないんだ。
漫画や小説ではこんな時ボタン側を切ったりして恋に発展したりするのだろうが、現実ではそうはいかない。
さっきからずっと目の前にあるコートは良い物なのだと見て判る。
は溜息を気取られないようにし、ポーチから化粧バサミを取り出して渡した。
「少しだけ、じっとしていてくださいね」
…切られてしまうんだ。
それなりに自慢の髪だったのだけれど。
自身にそれ程自信はないが、自分で唯一誇れる箇所。
付き合って来た人は皆の髪を褒めてくれた。
真っ直ぐで綺麗な髪だね、と。
先日別れた彼も言っていた。
そんな事を思い出してしまい、再び目尻にじわりと涙が滲んだ時、ジャキ という小さな音が耳に届いた。
「はい、取れましたよ」
「…え?」
音を立てて切られたそれは、ボタンだった。
驚きで顔をあげたは、更に驚く。
「ああ、貴女は…」
声が出なかった。まさか、こんな偶然。
ぶつかった相手は、先日バールで相席した老眼鏡紳士。
彼もの事を覚えていたらしく、「バールで相席になった…」 と目を丸くした。
本当に、こんな物語みたいな事が、起こるのか。
「すみません、もう少し、動かないでいて貰えますか?」
彼が彼だと判った瞬間、恥ずかしさが増す。
それはこの偶然の出会いにか、この醜態の相手がほんの少しでも見知った人だったからか、
それとも、彼、だからか。
ボタンを切りとって彼からは少し離れたけれど、髪にボタンは絡まったまま。
近過ぎて見難かった髪とボタンは彼にとって難しいものではなくなり、するりと簡単に取れた。
「あの…ありがとうございます」
「髪の毛、少し痛んでしまいましたね。せっかくの綺麗な髪なのに…」
明らかに前をきちんと見ていなかったが悪いのに、彼は本当に申し訳なさそうにしていた。
そして 『綺麗な髪』 と言われて体温が上昇していくのを感じた。
今まで何度も聞いてきた台詞。
聞き馴れている言葉だというのに、お世辞かも知れないというのに、どうしてこんなにも胸が高鳴るのだろう。
「…あのっ、」
何を言って良いかも判らないまま、は話しかけようと必死になっていた。
このまま別れてしまうのが嫌だった。
けれど開いた口をすぐに口を結んでしまう。
聞き馴染みのあるメロディが耳に入ったせいで。
短めの、機械で作られたメロディが2回3回と繰り返していく毎に我に返っていき、
赤くなっていた顔は次第に青くなっていく。
急いで音が途切れた携帯電話を取り出して見ると、
そのディスプレイには友人からの着信の知らせと、約束の時間をとうに過ぎた時計の表示があった。
「いけない…!」
「どなたか待たせているのですか?」
「は、はい…っ」
「早く行ってあげてください」
「あの、すみません!ありがとうございました!本当にすみませんでした!!」
怒る友人の顔が頭に浮かんで消えないはガバリと頭を下げ、その場を後にした。
石畳をカツカツと音を鳴らしながら走り、今までの事を振り返る。
彼の連絡先どころか名前すら聞かずに来てしまった。
謝罪の言葉は述べたけれど、自分のコートのボタンを躊躇いなく切った彼に、きちんとしたお礼をしたい。
そして何より、もう一度会ってみたいと思っていた。
けれどもう、会う機会はないのだろう。
*****
遅刻したは友人にこってり絞られた。
そして、「また食事に付き合うなら許す」 という事で手を打ってくれた。
しかし食事なら頻繁にしている。
食事を奢る…ならまだしも、そんな事で許してくれるのかとが不思議そうにしていると、友人は人差し指を立ててニヤリと笑った。
食事が美味しいのは勿論の事、素敵な紳士が向かえてくれるリストランテの予約がようやく取れたのだと言う。
だからそれに付き合え、と。
友人は少し興奮気味にそのリストランテについて話してくれたが、の頭には入って来なかった。
食事に付き合うのなら許すだなんて、最初から本気で怒ってなんかいないという事。
恋人と別れた時側に居てくれたのもこの友人だ。
口煩いけれど優しい友人に、は心から感謝していた…のだが。
ローマの外れにある小さなリストランテ。
『Casetta Dell'orso』 と書かれた看板の前に、は30分も立っていた。
そしてたった今、友人から来た一通のメールは、もう少しで着くから先に店に入っていろ、という内容。
仕事が立て込んで大変だったのだろうけど、もう少し早くこのメールをくれても良いのではないか?
今度は自分から友人に文句の一つでも言ってやろう。
そしてまた次の食事の約束で許してあげる事に決めた。
彼女がしてくれたように、自分も。
場所はやっぱりローマだろう。
そうすればいつかまた、あの人に会えるかも知れないから。
そう思いながらリストランテのドアを押す。
「Buonasera,ご予約のお客様でしょう…か、」
カランカランとドアベルが響くなか、迎えたカメリエーレとは硬直した。
を迎えてくれたのは、あの、彼だった。
これで、3度目。偶然の、再会。
小指を繋ぐ赤い糸
運命とまでは言わないけれど、何かを信じてしまいたくなる。
固まったままの二人を見かねた別のカメリエーレが声をかけるまで、互いに顔を見合ったままだった。
色々な事がの頭に巡ったけれど、二つ決めた事があった。
一つは、今まで聞けなかった彼の名前を、今日こそ聞くという事。
それともう一つ。それは、遅刻した友人に付き合ってもらう店は、この、Casetta Dell'orsoだと。