陽が落ちるにはまだ早いというのに、その小さな部屋は電気をつけていても薄暗く感じた。
 イベント中も、その後屋上でのんびりしていた時も、あんなにも良い天気だったというのに、正に晴天の霹靂。 の心境とシンクロするように青空に雷が走り、同時にバケツをひっくり返したような雨が降り出した。 近年聞くゲリラ豪雨というやつだろうか。 そんな季節でもないのに。

 その部屋はクラブハウスの中の一室でありながら、とても生活臭が漂っている。
 ただでさえ狭いのに、入って左側にベッド、右側にはロッカーや棚、はたまたダンボールが置いてあり、 それは全てこの部屋に居座る人物の私物が収まっている。 残った場所はひと一人がかろうじて座る事ができるくらいの幅しかない。 正面にテレビがあり、その手前には小さな座卓。そして周りには散乱しているDVDの数々。
 小さな部屋にしてはなかなか機能的で暮らしやすそうではあるが、人を招くような場所では決してない。 と、いうのに、その部屋の住人 ――― 達海がジュースを買って部屋に戻ると、 いつもは自分が座っているスペースにあきらかに場違いなものが居た。
 自分が部屋で待っているように言ったのだから不審者ではないのだが、 その光景はおよそまともといは言えない。

 テレビを見るようにして、要はドアを開けた達海から見て目の前に、パッカが背を向けて正座をしている。 そしてその背中の哀愁の漂い方といったら。 そのおもしろ過ぎる光景に、達海は思わず吹き出した。

 噴出している達海にパッカが振り向く事はなかった。 けれど、その背中からは負のオーラがありありと溢れてきている。 元々パッカは喋らない。 だからなのか、尚更に言葉以上の何かがある。 着ぐるみのはずが表情すら変わる気さえする。 それもパッカの人気に繋がっているのだろうが、全て “中のひと” の、テクニック故なのか。

「まーさかパッカの中身が女だとはねえ」
「………」

 ひーっ、ひーっと、呼吸すら出来なくなる程に笑っていた達海は、 涙を人差し指で拭いながらソレに話しかけた。 けれどソレは変わらずどんよりとした空気を纏っているだけで、うんともすんとも言わない。 自分の部屋にパッカがいる事にも慣れてくると、次第に喋らない事に苛立ちを覚え始める。
 達海は両手でパッカの耳辺りをむんずと掴み、思い切り持ち上げた。
 ずぽっと良い音を立てて外れたパッカの頭部をベッドに放る。 被っていたものと一緒に少しずり上がった髪の毛が、サラリと綺麗に元の場所に落ち着いた。

「コッチ向いて何か喋れ」

 少し不機嫌そうな、といっても子供が拗ねていると言ったほうが正しいか、 そんな声音で達海はその後姿に声をかける。 すると、おずおずと、座ったまま少しずつ身体をまわして達海に向き直り、 達海の様子を伺うようにポツリと  “あの、パッカくんはパッカくんで、中とか、ないですから” と言った。

「ぷくく、その格好で言うんだ?」

 どうやら怒っている訳ではなさそうな達海には胸を撫で下ろしながらも、プライドをもってやっている仕事のポリシーを笑われ、 ぷくりと頬を膨らませた。
 頭はしっかり出ていて、首から下だけパッカの着ぐるみを着ていては説得力がない事くらい分っているが。

「あの、パッカくんはパッカくんであってですね…」
「あのさー、他のひとはいないの?」
「え、」
「パッカやってるの」
「あの…達海監督…パッカくんの中は…」
「いないの?他に」

 ひとの話しを全く聞かずに、しかもこちらの訴えを完全否定した疑問をずずいっと強引にぶつけてくる達海に、 は腰を引きながら 「…はい、私だけです」 と答えた。
 そう、には達海に逆らえない理由がある。 たった今達海が口にした、自分がパッカのスーツアクターであるという事。 完全に弱みを握られている状態だ。 しかも彼は、それで絶対に良からぬ事を考えているに違いない。 この部屋に来る前、それがバレた屋上で、達海は悪ーい顔をして笑っていたから。

「へーえ、じゃあさ」
「あの、達海かん、と…」
「この事他に知ってんのは?」
「あ、あの、」
「他に、知ってる、ひと、は?」
「…会長と、笠松さんだけです」
「なぁーんだー、おやっさんはともかく、笠さんも知ってんのかー、つまんねえの」

 達海の表情は、新しい玩具を早く見せびらかしたい子供そのもの。 拙い、完全に拙い。 “パッカの中” の事は必要最小限の人間しか知らない極秘事項。 気の緩みで達海に知られてしまったが、それ以上に知られる訳にはいかない。 事情を知る会長や笠松が口外する事はてないだろうが、この悪ガキのような達海に、 どうやって口止めをすれば良いものか。

「あの!達海監督!」
「…ナニ、そんな大っきい声出さなくても聞こえるよ」

 今までからの言葉は全て流されてしまっていたので気合を入れて声を出したが、 シレっと、薄い目で非難するような視線を向けられる。 今まで完全無視だったクセに…!と、内心で文句を言うが、言葉には出さない。 ここで達海に機嫌を損ねられてはならない。

「あの、私がパッカくんをやっている事、あまり知られると困るんです…」
「うん、そうみたいだね」
「え?」
「アンタの慌てぶり見てれば分る」

 このオトコ…!
 今度こそ言葉に出してしまいそうだったが、何とかそれを嚥下した。 もしかしたら口の端がピクリと痙攣を起こしてしまったかも知れないけれど、ぐっと堪える。
 そもそも達海を普通の大人だと思ってはいけないのだ。 クラブハウスの一室を自分の部屋にしたり、 監督就任記者会見で “わかんなーい” を連発したようなひとだ。 先ほども “悪ガキ” っぽいと思ったが、そうだ、そのまま子供だと思えばいい。 子供を相手にしていると思おう。
 だから、へらりと笑顔で、下手に、下手に、冷静に説得し、 何としてでも言いふらさないと約束を取り付けなくては。

「あの、なので、他のひとには秘密にしていただけますか?」
「どーしよっかなー。こーんな面白い事、黙ってらんないかもなー」
「ええええー」

 悪ガキは、その実、意地の悪いオトナだった。
 下手に出る作戦は一言目で軽くいなされてしまい、ついには声をあげてしまった。 この作戦が効かないとなると、もう最後の手段、頼み込みである。

「あのっ、そこを何とか…お願いします!!」

 べこべこと音が出そうな位に頭を上下させる。 今誰かに見られたらライブ会場などでヘッドバンギングをしているひとの真似にしか見えないだろう。 まあ、頭はで身体がパッカの “今” を、他のひと見られる訳にはいかないけれど。
 頭がくらくらしそうな程に頭を下げ、祈るように両手を重ねる。何だか目がうるみはじめたところで、 達海が 『まあまあ』 と、肩をたたいてくれた。
 分かってもらえた!と、の表情がぱあっと明るくなった瞬間、また、アレである。 ニヤリという、達海の、あの、悪い顔。 そして、『じゃあさ』 という声を聞いた時、の悪い予感メーターは振り切た。
 何を言われるのだろうか、全身から冷や汗が噴出してくる。

「朝の練習9:30からだから、毎朝起こしに来てね。 朝ごはんも忘れずに用意するコトー。 あ、午後にはおやつもね。 明日はアイスだな。うーん、パピコかなー。 朝ごはんもおやつもリクエストがあれば都度言うけど、それ以外はお任せでー。 でも気に入らなかったら買いなおしだからね」

 達海は一息でそれを言い終えた。そして、は硬直したまま。

 しばらくしてハッと我に返り、このままではいけないと思い直し、気を落ち着かせる為に一度大きく深呼吸する。 思わず 『はあ?!』 と、声に出して言ってしまいそうだったが、 それは何とか飲み込んで、ゆっくりと質問を開始する事にした。
 最終奥義を使ってしまった以上、ここから先は駆け引きしか残されていない。 弱みを握られてしまったのだからある程度の事は仕方がないと自分を納得させ、少しでも、条件が良くなるように。

「えっと、パッカくんだけ参加のイベントとかで、クラブハウスに来ないで直行直帰の時とかは…」
「ああ、そーゆー時は仕方ないよね。 俺も鬼じゃないからさ。 そん時はキチンと有里に引き継ぐことー!以上、質疑応答終わりっ!」
「え、ちょっと、待ってくださいっ」
「ヤダ」

 今までから切り出した事は悉く切り捨てられてきたが、最後の最後でもバッサリと切られた。
 しかしここで引き下がる訳にはいかない。

「いや、あのっ、そもそもソレって今有里さんがやってくれている事ですよね?」
「そーだけどアイツいちいち文句ばっかりウルサイんだもん」
「だもんって…いやそうじゃなくって。だったら、何か別の事のほうが良いんじゃないでしょうか、ね。」
「ダメ、もう決めたから。俺オマエの事気に入っちゃったし」
「でもほら、他の事にすれば、達海監督にとっては今以上の環境になるわけで…」
「しつこい」
「あ!ほら!例えば週末にマッサージ、とか」
「ブッブー、却下。俺、監督。マッサージとかいらないし。 あ、でもパッカが選手にマッサージとか面白いかも。毎日2〜3人づつ交代で…」
「わー!わー!わー!さっきので、お願いします!喜んでやらせていただきます!」

 結局、物凄く簡単に引き下がるハメになった。大敗だ、完敗、惨敗。

 達海に駆け引きをもちかけた時点での負けは決まっていたのだ。 相手の弱点を見極めて徹底的にそこを攻撃する、それは達海の得意分野じゃないか。
 否、弱みを握られた時点で既に負けは確定していた。 完全に心を折られ、両手を床に付けてガックリと項垂れる。 もう半べそどころか全べそだ。

 上から 『あ、』 という声が聞こえてくる。
 このパシリ以外のなにものでもないこれ以上なにをしろと言うのだ。 もうヤケになり、今なら出血血涙大サービス、何だってやりますよ! と、睨み付けるように達海を見上げると、思いがけない言葉が落ちてきた。

「名前は?」
「へ?」
「アンタの名前、俺、知らない」
「………、です」
「そか。、よろしくな」

 裏のなさそうな笑みで差し出された手に、再び固まってしまった。
 握手、で、良いのだろうか。

 考えてみたら達海はスポーツに携わる仕事をしている。 元を正せばスポーツ選手だった。 フェアプレーと相手を尊重する精神であるスポーツマンシップに則っていた人だ。 若かりし頃、も憧れていた選手のひとりだ。
 今日一日でのなかの達海の株は既にストップ安だけれど、 本当は、本当は、根は悪いひとではないのかも知れない。

 はパッカを着ているせいでぽってりとした緑色の手を、達海に重ねた。

 今までが今までだったせいか、それだけで達海がとてもいいひとに見える。
 勘違いしてしまってゴメンなさい、達海監督は悪魔じゃなかった。 最早天使かも知れない。 何だかこの握手にもご利益がありそうな気がして有難くて泣きそうなくらいだ。
 きっとこの握手だって、ETUに携わるひとりであるという人間を認識し、達海なりに受け入れてくれたからに違いない。 もしかしたらこのパシリ契約だって冗談で、本当は条件など無しに秘密を守ってくれるのかも。
 は達海に後光がさしているように見えた。 降り注ぐ爽やかな笑顔。
 あれ、爽や、か…?

「ちなみに、口止めの条件、状況に応じて臨機応変に増えていくから」

 ――― 嗚呼神様、一瞬でも信じた私がバカでした。
 どこもかしこもどしゃぶりだ。