目の前に広がるのは、尻。
しかもピチピチな桃尻でもなければ、もう半ばオッサンに差し掛かった男の薄汚れた残念な尻。は薄いゴム手袋を外しながら溜息を吐き、胃のあたりに感じるもやもやした何かを発散するかのようにその尻を叩く。 …と、バッチン!という小気味良い音と悲鳴混じりの声が同時に聞こえ、少しスッキリした。
「…っ痛ェなァ…!」
「煩い此処は生徒の為にあって私は生徒の為に居るのであって
教師
(
おまえ
)
の為 ではないのだからこの位の仕打ちは我慢しろ」
「何だその俺様目線何様だ…。ったく、今日はいつもに増して感じ悪いなクソォ」
どれだけ文句を言われたところで、目の前にいるその男は、猫がけのびをしているような格好… 女の子がやったらさぞかしなまめかしくなるような、背を反らせて尻を上げた教師らしからぬせくしーぽーずだから怖くない。 というよりも、どちらかというと見ていて腹立たしい。
「毎回毎回汚い尻に痔の薬注入する保健医の身にもなってみろ」
「仕方ねェだろ!こっちはあのバカ教師のせいで尻が死にかけてんだぞ!」
「尻は死なない。そもそもどうやったら投げたチョークが尻に刺さる」
「あいつはいつも狙ってやがるんだよ!俺の尻を!スナイパーなんだよあいつはなァ!」
「……阿呆か」
思い出すと怒りが込み上げるのか、パンツとズボンを上げながら猛る全蔵を一蹴する。 怒りも限界を越えると泣けてくるらしく、目尻にはうっすらと涙を浮かべているが、泣きたいのはこっちだ。 何が嬉しくて こんな日 に、好きな男の尻にぼらぎのーる注入しなければならないのか。
は今一度盛大な溜息をつきながらゴミ箱へ使用済みのゴム手袋を投げ捨てた。
悪態をつくのはいつもの事だが、このまま会話を続ければ本気でぶつかり兼ねない。 きっと 今日だから 苛々するのだろうが 今日くらいは 喧嘩なんかしたくない。 甘い関係になれる事など期待してはいないが、せめてその位は。 は胃のあたりのもやもやと気持ち悪い感情を押し殺し、気を紛らす為に自分のデスクに戻ってパラパラと書類をめくりはじめた。
今月は3年Z組の健康診断か。 他のクラスとともに先月行ったが、あのクラスだけ目茶苦茶になって日を改める事になった。 全く、問題児ばかりのクラスなのは担任からしてアレだから仕方ないが、今度はきちんと終わらせたいものだ。 そもそも好きな男の尻の治療をしなければならないものあの男のせい…あ、いけないいけない。 落ち着くどころかまた腹が立ってきた。次の書類にいこう。 あれ?書類の間から出て来たのは校長から………ペットの診察、依頼?知るか私は獣医じゃない、次。
苛々をぶつけるように書類に目を通していると、ふいに薄く開いた窓から優しく風が入り込んだ。 青みがかった白いカーテンを躍らせるそれは、の気持ちをほんの少し落ち着かせる。
紙類が飛んでしまわないように上にペーパーウェイトを置き、ちらと全蔵を見やる。 専用のドーナツ形の椅子に座り、未だにブツブツと天敵の文句を言っている。 その姿は大人としてとても残念でありながら、惚れた弱みか、落ち着きを取り戻し始めたの頬を緩ませるには充分だった。
すっかり毒気を抜かれてしまったは、自分の為に淹れいた紅茶を慰め代わりに彼の前に置いてやる。
「お、何だ、」
「茶だ」
「んなもん見りゃわかる」
「じゃあ何?」
「俺に出してくれるのが珍しいだろ」
6時間目も後半に差し掛かったところ、時刻は午後3時少し手前。 バタバタと昼休みと5時間目を乗り切って、ちょうど小腹がすく時間。
「まあ、時間も時間だしな」
今一度、今度は本当に自分の分を淹れる為に給湯器まで行き、はたとする。
もしかしてこれは、今年も渡す事なく持ち帰り、 自分で食べるという虚しい結果になると思いながら持って来たアレをさりげなく渡す事の出来る、 絶好のチャンスなのでは。
突然巡ってきた好機にばくんばくんと心臓が逸る。
落ち着け自分、そう、これはあれだ、時間的に出すあれであって、今日あれだからな訳ではない。
いつもの自分らしく、自然に、自然に。 世の中にはツンデレという言葉があり、自分もいつもツンツンしてはいるがデレのほうは似合わない事くらい分かっている。 バ、バババ、バレンタインだからって訳じゃないんだからね!…ほら、想像しただけで気持ち悪い。
こんな事を考えてしまっている時点で緊張している証拠なのだけれど、今それには気付けるはずもなく。
包装紙をはがし、箱を開けると規則的に並んだ丸い琥珀色。 トリュフを2粒、震える手で小皿に乗せて。
「ん?」
「…お、お茶うけ、だ」
背中に痛い程の視線を感じながらデスクへ戻る。 何故そんなにこっちを見るのだろうか。 手足同じほうを出して歩きそうにはなったが、きちんと歩けていたはずだ。 お前が特別な訳ではないとアピールする為に、自分にも置いた皿のうえにはわざと彼より1粒多くしたチョコレート。 いや、本当は特別なのだけれど、でも、それで違和感はなくなっただろう?!
「そういや今日ってバレンタインだな」
突然の、それも心を見透かしたような全蔵の言葉に心臓がドキンと跳ね、口から飛び出るかと思った。
けれどそうはならずに済んだのは、彼の声が若干震えていたからだろうか。
そのおかげで落ち着いてきたは全蔵の表情をじっと伺ってみたが、いつも通り長い前髪が邪魔して良く見えない。
「俺は醜女が好きなんだ、お前はタイプじゃない」
何だそれは!何だ突然!自意識過剰!!別にお前にバレンタインチョコレートを渡したつもりは…! そう、実はあったから、そんな事を言う訳にいかず。
これはもしかして、告白とかそう言う以前にフラれたという事だろうか。
こうなる事くらい分かっていた。自分は彼のタイプではなく、今の関係が壊れてしまうのが嫌だから毎年チョコレートを渡す事すら出来なかった。 だからさりげなく、自己満足だけでも良いと、おやつを装って渡したのに。
思っていたよりもショックで言葉が出てこない。
そんなを見ながら、全蔵はもう一言付け足した。
「ちなみに俺の美的感覚は普通だからな」
混乱した頭に彼の言った言葉は更に混乱させるだけで、いったい何が言いたいのかが分からない。 醜女が好きだが美的センスは普通だと自分フォロー? ん?美的感覚は普通で、醜女が好きだから自分はタイプではない…って。 あれ?これって、もしかして、
「それ、褒め言葉だよな?」
それはが醜くないというだけの事で、の事が嫌いだと言った訳でも、フラれた訳でもない。ただタイプではないというだけで。
昼下がりの穏やかな風とともに最後に聞こえた全蔵の言葉は、カーテンと同じくの心も少し躍らせた。
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ももいろのぷちかん
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cuscus
Under Another World : ANNA