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身体を重ねている時は信じられない位に幸福で、 意識や想いがとんでしまうよう程の烈しさを求める。 そして行為の後は、決まって切なさが込み上げた。 A fairy tale in the moonlight
![]() ふいに風を感じて目が醒めた。 海の底から浮上するように、ゆっくり瞼をもちあげると、ぼんやりと薄明るい部屋が目に映る。 床に入る前に窓は閉め、眠りにつく前に灯籠の火も消したはずだ。 寝起きの回らない頭で明かりの元を辿っていくと、窓の木枠に腰掛け、 紫煙を燻らせながら下の通りを眺めている彼が居た。 「何か、珍しい物でも見えますか?」 「…あぁ、起こしちまったか」 目を醒ましたをチラと一度見た後、また外へ視線を戻しながら 「悪ィ」 と呟いた土方に、は 貴方のせいで起きたんじゃない と言う意味を込めて首を振った。 蜂蜜色の月明かりに照らされ、着流しを羽織っただけの土方は美しく、とても絵になる。 彼の視線の先にある何かに、軽い嫉妬を覚えてしまう程に。はそんな想いを振り払うように、土方の側に寄り、枕元に用意してあった団扇を持で彼を扇いだ。 「寝苦しかったですか?」 「あ?…いや、そーでもねェよ」 長く続いた雨の季節も終わり、日中は外に居るのも辛い季節へと変わった。 女達を幽閉していたこの吉原からも空が見られるようになり、 以前よりも皆がイキイキとしだしたのは確かだが、 その分街全体に行き届いていた空調は効かなくなり、うだるような暑さは地上と変わらなくなってしまった。 その暑させいで彼は目を醒ましたのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。 「夏はこんなに暑いものだったのですね」 「…キツイか?」 「そうですね…私達は着物を着込んでいますから」 「それもそうだな」 街全体に空調がきいていたおかげで、エアコンのある遊郭など今迄なかった。 大きな店はすぐに取り付けたと聞いたが、の居る小さな店ではその予定すら未だない。 だから今年の夏はひたすら暑く、この街を解放した者達が少しだけ恨めしくもなった。 特に熱帯夜は寝苦しくて仕方がない。 けれどその分、夏の良いところを見付ける事も出来た。 土方の腰掛ける窓の外で、蛍が一匹踊るように飛んでいる。 それも、夏の良いところの一つ。 「私、今年初めて蛍を見たんです」 「見た事なかったのか」 「ええ」 暑くても、そういった事があるから辛くない。 暑さは辛くはないが、ただ一つ、心配事がにはあった。 絶好の避暑地だったこの街から、お客が遠ざかる事だ。 否、他の客はどうでもいい。 土方があまり来なくなるのではないかと、それだけが心配だった。 「なァ、」 「はい」 名を呼ばれ、俯いていた顔をあげる。土方とは客と遊女。 これは抱いてはいけない想いなのだ。 自身にそう言い聞かせている時に名を呼ばれてビクリとしてしまったが、 土方は気付いていないようでホっとする。 「海、見に行かねェか?」 「え…?」 土方の突然の言葉に、は次の言葉が出てこなかった。 いきなり、どうしたというのだろうか。 ずっと窓の外を見ていた彼の視線は真っ直ぐにを見据えている。 普段からあまり笑う人ではないが、その目がいつも以上に真剣に見えるのは、気のせいか。 撫でるように吹いた風が、土方の前髪を揺らす。 「見た事、ねェだろ?海も」 「…はい」 外を眺めながら、土方はそんな事を考えていたのだろうか。 自分と二人で、この街から抜け出す事を。 ――― しかしそれは、自分に都合の良すぎる推測かも知れない。 「見たくはねェか?」 「そんな事!ない…です、が…」 街から出る事は出来ないという、かつての掟はなくなった。 けれど幼い頃に売られたこの身。 決して自由になどなってはいない。 土方だってそんな事は判っているはず。 きっとこれは、叶う事のない、真夏の夜に見る夢物語だ。 土方と二人で見た事のない場所へ行けるという、お伽話。 水槽の中の金魚だって、夢を見る位は、きっと赦される。 「………行って、みたいです」 土方と二人で、見た事のない、海を見に。 話しに聞く、ジリジリと照り付ける太陽に真っ青な空と海…は、土方に似合わない。人混みも好かないだろうから、 「やっぱり、夕暮れか夜かなあ…」 「んァ?」 「海に行くとしたら、です」 「…そうだな。日中は人だらけで歩けやしねェ」 土方の発言はの想っていた通りで、思わず笑みが零れてしまう。 人のいなくなった海。 何処までも続く地平線を眺めながら、二人で波打際を歩く。 見た事のない、話しでしか聞いた事のない海を初めて見る時、隣に居るのは土方。 それはなんて素敵な事だろう。 「…あ。でも、かき氷は食べたいなあ…夜じゃ売ってないですよね?」 「探しゃァあんだろ」 「本当ですか?!」 「まあ最悪コンビニだな」 「綿菓子や林檎飴も売ってますでしょうか?」 「売ってねェだろ。そりゃ祭だ」 「…そうですか、それは残念です」 この街で手に入らない物はない。 かき氷や綿菓子、林檎飴だって簡単に手に入る。 けれど土方と行く海で一緒に食べてみたかった。 想像の世界でさえ叶わないのか。 心底残念そうな表情を見せたに、土方がポツリと零す。 「祭にも、連れて行ってやるよ」 胸を締め付けられるようだった。 彼の言葉に、視界が涙で滲む。 土方のその声は、少しも冗談の色を含まず、酷く真摯だったから。 彼が本当にそうしてくれようとしているのだと判ってしまったから。 それは叶わない事。 けれど、思わず信じてしまいたくなる。 「土方さん、」 「十四郎でいいっつってんだろ」 「十四、郎…さん…」 いつの間にか土方は畳に腰を下ろし、二人の距離は縮まっていた。 漆黒の髪、切れ長な目、通った鼻筋。 土方の整った顔が近付き、は瞼をおとす。 口唇に、彼の優しい体温が伝わってくる。 彼が、愛しい。 涙が溢れる程に愛しくて、堪らない。 「をここから連れてく。俺が、嘘ついた事があるか?」 声を出したら声をあげて泣いてしまいそうで、はただ首を振った。 土方が約束を守らなかった事などない。 去り際に言う次来る日の約束も、菓子を買ってくるという小さな約束も、 一度だって違えた事はない。 「連れてってやるよ」 こくこくこくこくと何度も頷く。はそれしか出来なかった。 夏の夜中に話したお伽話。 この世界自体がお伽話の中であれば、それは本当になるだろうか。 願ってもいい? 信じてもいい? 信じたい。 再び重ねた口唇は、先程より深く、の涙でしょっぱかった。 聞いた事がある。 海は涙の味がすると。 月明かりの元聞く御伽噺は優しく幻想的で、 夢さえ叶うのかも知れない。 この街から出て、土方と二人で。 |