絶対にそこにある筈の場所にぽっかりとした空間が開いていると
吃驚することを通り越し、ただひたすら、ぼんやりとしてしまうことがある
煙草を忘れたくらいなら、店を出て通り向こうの自販に行けば解決するが
携帯となると少し面倒だ、どこで忘れたのか、さっき食事をした店か
小さく舌を打って周りを眺める、このカフェには公衆電話の影など微塵もない。
自分の携帯へかけるのも叶わず、さっきの店の番号を調べることもできず
薄い電子精密機器に頼りきっていた代償が、早くも影響を現しはじめ
浅い溜息を吐き席を立とうとした刹那、身体の横から、スイ、と腕が伸びて
「お姉さん、携帯を落としませんでしたか」
振り返ると、爽やかな笑みを浮かべた青年が私の携帯を差し出していた。
「ありがとう、助かりました」
礼を言って受け取ろうとする腕を避けるように、携帯が斜め上へと位置を変え
「どういうつもり」
「すみません、こうでもしないと貴方がさっさと立ち去ってしまいそうで」
言葉は丁寧だったが、その瞳には有無を言わさぬ自信が滲んでいて
私が伸ばした腕よりも少し上にある携帯、唇の片端を上げた笑みにも
そこはかとなく、決定権がどちらに握られているかを漂わせていた。
「携帯が、人質ってわけ」
「いや、そんな卑怯なことはしませんよ、話をしてくれたらすぐに返します」
「随分強引なナンパね」
「俺は常に“女性にはフェミニストであれ”と思ってるんですけど?」
もう一度煙草に火を付けて、目の前に座る青年、六条千景とか名乗っていた
をじっと見つめた、ぶしつけな私の視線を物ともせず脂下がるその顔に苦笑し
「で、何の話をする」
「そうですね、お姉さんの日常の過ごし方とか」
「お姉さんは止めて、身体が痒くなる、でいいわ」
「、さん」
一度呼び捨てにして、申し訳程度に添えた“さん”にトクンと心臓が跳ねた
私よりも確実に年下だろうに、その女に物馴れた風情、なかなかに侮れないヤツ
「嗚呼、俺は六条でも、ナンパ野郎でも、好きなように呼んで下さいね」
「出来たら千景って呼んでもらえると、天にも昇る心地で」
「それで、六条さん」
「う、まあ、いいんですよ、いいんです、さんに呼ばれるんなら何だって」
「嘘よ、で、どうして私の日常なんかに興味があるの、千景くん」
「いや、門田さんとか平和島さんの知り合いって、一体どういう筋の人かと」
「中を、見たの」
「すみません、一瞬姿を見失ったんで、連絡手段の確認です」
悪びれずにそう言ってニッと笑う千景を軽く睨み、溜息を吐きだしながら
「別に、怪しいことはしてないわ、二人は昔からの知り合い」
「へえ、で、明日はどっちと過ごす予定なんですか」
「えっ」
「誕生日なんでしょう、明日、それともこのまま俺と迎えます?」
やっぱり侮れない、銜えていた煙草がポロリと落ちそうになって
笑いながら仕草でそれを教える千景の、長く筋張った指をぼんやりと見ていた。
「俺に参っちゃいました」
「まさか、それより、千景くんこそ二人とはどういう知り合いなの」
「ちょっとね、まあ、泥臭い話なんで」
「で、門田さんか平和島さん、どっちかの彼女だったりします」
「そうなると、なかなかハードな展開になりそうなんでね」
数十分前に知り合った子に真正直に教えることもない、どうせ今夜ここで別れたら
もう会うこともない、京平、静雄の二人とも穏やかでない事情があったようだし
「いいえ、どちらも違う」
短くそうつぶやくと、微笑みながら右手を差し出した
「コーヒー一杯付き合ったわ、もういいでしょう」
「嗚呼、はい、もう十分です、それにしても」
「へえ、そうなんですか、それじゃあ俺にもチャンスがあるんですね」
「貴方には皆無よ、六条千景くん」
ニヤリと笑って携帯を差し出す千景に、さらに艶めいた笑顔でそう言って踵を返した
店を出た途端に響く着信音、未分類のメールの時に鳴るそれを不審に思い開いてみると
“今夜は楽しかったです、可愛い嘘吐きのお姉さん”
差出人は六条千景、それから着信履歴に溜まった十数回の番号の発信者は平和島静雄
すっかり見抜かれ、転がされていた事実にキュッと唇を噛み、アスファルトを蹴った
侮れない、どころか、実は、触れた瞬間烈火に包まれるような危険人物だったのかも。